玉助の新釈 芭蕉連句 

『俳諧七部集』収載の巻について

 芭蕉先生は、どうしたことか、弟子たちと巻いた連句を後世の人のためにと解説しておいてくれませんでした。連句は巻き終えればそれは反故である、と言った手前解説は残さなかったのでしょうね。その代わりといっては何ですが、後世の人がさまざまに解釈できる楽しみを残してくれたことになります。
 ここでは、不肖玉助が、おそれながらも、芭蕉先生の連句の解釈を試みます。しかし自由勝手にやるわけにもいきません。芭蕉先生存命の時代と、平成では、世の中の常識、風習など様変わりですから、同じ言葉でも意味するところが異なって居る場合が多々あります。先達の手をお借りして、そのへんをするりとすり抜けて行くつもりです。
 連句つくりの妙味は、前句の作者の意図を次の人が別の意味に変えていくことにあります。一句の解釈は、人によりさまざまとも、極言すれば、いえるわけです。皆さんも杓子定規に考えず、ご自分なりの解釈を試みられたらいかがでしょうか。
 試みに、時代考証を取り払って、ご自分たちの連句の中に芭蕉先生たちの連句のひとつを置いてみると、結構つなげられるかも知れません。それは、ひとつの現代解釈ともいえるのかも知れません。
 では、ぼちぼちと、七部集*の中へ入っていきましょうか。歩みは遅々とした蝸牛のごとくですが、お付き合いのほどを、よろしく願います。
*『俳諧七部集』全12 冊。佐久間柳居編。1732〜33 年頃成立。芭蕉の代表的撰集「冬の日」「春の日」「曠野(あらの)」「ひさご」「猿蓑(さるみの)」「炭俵」「続猿蓑」を集めたもの。

『冬の日』----------------------------------------------
貞享(じょうきょう)元年 [1684年] 芭蕉 41歳
『 冬の日』の背景
貞享元年、四十一歳の芭蕉は、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句とともに江戸を立ち、野ざらし紀行の旅に出た。伊勢、伊賀を経て、美濃・大垣の素封家・俳人谷木因に身を寄せた後、彼の同道のもと名古屋に赴き、そこで有力人士の知遇を得た。以降、この地は蕉門の有力な地盤となった。
その年の冬、名古屋滞在中に、新たな門人たちと巻いた歌仙を、参加した山本荷兮(かけい)が書きまとめて刊行したものが本書である。後世、七部集の第一番目に置かれた。
参加の連衆は、中心になった荷兮は医者といわれ、他は皆有力な商人たちであった。
NEWS:芭蕉連句のアニメーション映画『冬の日』を見てきました。
アニメでのそれぞれの解釈はなかなか蘊蓄に富んで、見応えがありました。現代風解釈などは、制約を越えての面白味がありました。連句つくりと同じように、一人ひとりが続けてつくっていったらもっと違ったものができただろうと思いますが、果たしていつ完成するか分からないものになってしまうでしょうね。

    こがらしの巻   芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、(正平)